つるがや プロフィール


ご挨拶

 初めまして、越後国三条でふるさとのお菓子やお餅をつくって二百有余年の菓子店です。親が自分の子供に食べてもらうように作っています。私どものお菓子で幸せのひとときが訪れますれば幸いです。

 なかなか顔を会わせることができない方も多いとは思いますが、皆さまのお役にたてれば幸いです。どうぞお気軽にお立ち寄りください。遠方の方は、電話やFAXによるご注文も承りますのでどうぞご利用ください。   七代目敦賀屋長吉



創業

 つるがやは徳川時代後期、町人文化華やかなりし文化文政時代に初代敦賀屋長吉によって創業致しました。文化時代に始め店を構え、今でいう税金を納めて文献に載るようになったのが文政時代になってからなので創業文政としたようです。初代は良寛様とも親交があったと言い伝えられています。明治までは薬を中心に饅頭・餅菓子類(甘いものは貴重で薬の一部)の製造販売をしておりました(明治時代の広告が残っております)。

 二代目が江戸長岡藩の城勤めをしていた女官を妻に向かい入れてからは、宗徧流の茶道と池坊の花道を教えていました(当時の免除、軸があります )。明治初頭には寺院に頼まれて、越後国一円にわたる回忌法要大茶会を催した時の亭主(主催者)をしたと伝えられています。

 徳川慶喜の側近だった高橋泥舟の来訪逗留と深い交流が有ったようです(最近それについての書籍が発刊)、また五代目は中央文壇との交流が有り、中央で活躍していた方々を招いたりしていたようです。



屋号の由来

 つるがやの屋号は、初代の出身地である旧寺泊町敦ヶ曽根(現長岡市寺泊敦ケ曽根)にあやかって名付けられました。また、敦ヶ曽根も足利時代に移り住んだ敦賀の人達に由来すると聞いております。初代の出身の家の近くに敦賀神社があり、その面影を漂わせています。 



店内の風景

 お店のなかの様子です。自動ドアを入って正面に、商品が置いてあります。上には荻根沢小帆先生(六代目の親友)による書がかけてあり、自動ドアの右側には古くからの石臼が置いてあります。壁には文字が異なりますが「つる」の音にちなみ、鶴にちなんだ絵画や商品名の篆刻(佐藤海山・私の友人)が飾ってあります。



店の看板

 この店の看板は屋久杉でできています。店をリニューアルした時に、縁あって求めました。荻根沢先生の書を基に、北方文化博物館や三条の寺院の看板を彫った方に彫って頂きました。見るたびに縁の不思議さを感じさせられる看板です。



国登録有形文化財

平成28年に国の登録有形文化財に指定されました。五代目が若い頃(大正13)に造らせた家屋です。戦時中は背が高いので壊すか低くしろとの命令がきて、奥を平屋にしたという経緯があります。大正・昭和・平成・令和をつるがや とともに歩いてきました。年に数度の町歩きや5月15日の祭り時に茶の間を見てもらうことがあります。



三条の誇りG馬場さん

 三条と言えばジャイアント馬場さんの出身地です。祖母も母も豆大福や味噌饅頭を買いに来た馬場さんとの思い出をよく話してくれました。少年時代の馬場さんは真面目で「しょうしがり」(こちらの言葉で恥ずかしがり屋の意味)のようで、おつりを渡すと「小銭がどこにいったのかわからないぐらい手が大きいね」と言うと顔を真っ赤にしたそうです。

 市内の各高校でバスケットを教えていた六代目(高校時代全国優勝した時の再延長の決勝点を入れた逸話・スポーツ誌があります)が、三条実業高校に入学してきた馬場さんを我が家に呼んで、背の高さを見込んで「バスケットをしないか」と口説いたことがありましたが、断られたとのことでした。

 その後馬場さんが読売巨人に入団したのは、あまりにも有名な話です。プロレスの団体を率いていた時に私が直接お会いしてその話をしましたら、かなり懐かしんでくれました。

 馬場さんの餅・饅頭好きは当店の大福や餅、元祖味噌饅頭などからきているのはよく知られていますが、馬場さんの三条実業時代の野球部の方々から、馬場さんが亡くなった時と一周忌に二度、「縁もあり好きだったつるがやさんの菓子で馬場君を送りたいので、餅類で野球の靴を作ってくれ」と頼まれましてお作りしたことがあります。32文キックにあやかってかなりの大きさで、全体を豆餅で靴紐を海苔餅で作りました。私にも懐かしい思い出です。